かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

”後期中年者”のモラトリアムな今

Blogを長らくご無沙汰してしまった。
なにしろ時間が飛ぶように過ぎていく。
幸いなことに、ヒマで時間が過ぎたワケではなく、意外と忙しい日々だった。

 

昨日は敬老の日。「高齢者」の定義はいろいろあるらしいが内閣府のコラムによると65歳越したあたりのようだ。夫くんによると私たち61歳は「後期中年者だよー」(笑)。ただ、「高齢者」観としては70歳だったり75歳だったり、更に今後はもっと高齢になりそうだからいつまで後期中年が続くかわからない。

 

ふと「モラトリアム」と言う言葉を思い出した。学生が社会に出て一人前の人間になることを猶予されている状態で大人になるための準備期間、大人になるためにアイデンティティを確立するための期間のこと。


ふむ。私はさしずめ一人前の老人になるために老人としてのアイデンティティを確立するためのモラトリアム中かな。

たぶん過渡期にある(当社の)嘱託制度の中で、中途半端な働き方をしているなあとも思うが、定年という区切りの先にまだまだずっと続く(ともすればあと40年⁈)老人としての人生に軟着陸し、これまでと違ったライフスタイルを確立するにあたっては、この中途半端さがとてもありがたく思える。

 

夫くんから「うちの家内」ではなく「社内」と言われるほど会社人間だった私が、今の中途半端な労働形態のおかげで、多少なりとも趣味を持ったり、Blogのおかげで価値観を見直してみたり、お金の使い方を考えたり。ここ数年、我ながらモラトリアムっぽい変化を感じる。良いと思う。コロナ禍というパラダイムシフトのおかげでもあるかな。

 

子供から一人前の大人になろうとする時もこんな感じだったかなあ。ちょっと不安もあるけど、これから起こることになんだかワクワクする感じ。
ヨーシ、立派な一人前の老人になるゾ〜!

 

一方、夫くんは「後期中年」を自ら定義して、あらためてハタと気づいたらしい。「まだ高齢者じゃないんだ!中年なんだ!」と拳に力を込めていた。

それぞれこんな形で何かのモチベーションが上がった敬老の日であった。

嘱託1年生

はてさて、嘱託社員になってから早1ヶ月が過ぎようとしている。
会社としても歴史ある制度ではないためか、明確な「使い方マニュアル」「評価マニュアル」があるんだかないんだかよくわからないが、今のところ本人としては案外気楽で気に入っている。

嘱託3年生の先輩がおっしゃるには、会社との間の取り決めはA4の雇用契約書に書かれていることが全て。一般社員のように各自で目標設定もしないから、それをベースとした査定もない。自分が心地いいと感じる立ち位置や取り組む範囲を自分で決めてやっていくといいよ、とのこと。

 

嘱託社員になってお給料が減った分、担当するお客様も減り、プロジェクトの取りまとめ的役割やなんとか委員という部門の窓口的業務もお役御免となった。
心情的に変わったのは、会社や組織をより良くしていこうとか若者たちに成長してほしいとか、そんな“ご立派な”ことは考えるのをやめたこと。正社員の時は管理職じゃなくてもそんなことを考えたりしたけど、つまりそんなことに思いを巡らせたり心を砕いたりすることが正しい在り方だと思っていたけど、もう自分の仕事じゃないと思うから。

 

と上から目線なことを書いたが、これはちょっと嘘。日々何かと気になる。「もっと〜すべきじゃないの?」「従来、これはね・・」「そもそもこれって・・」などとつい口に出したくなる。
でも敢えて言わない。若い力が会社を変えていこうというとき、定年退職して嘱託社員となった私はもうお呼びでないのだ。だれも私の意見なんて求めていないよ、とシャッターを閉める。
自ら疎外感をまとって自己防衛する、小賢しい嘱託1年生である。

 

組織の中で自分のキャラやスタイルが定まらなかったりミッションが見えないと落ち着かないものだ。
立場が変わったことを自覚して、このへんのモヤモヤの整理ができたところで気楽になった。肩の力が抜けたせいかお客さま対応もますます楽しい。ヒトとしてどーなの?と言われない程度に与えられた範囲の仕事をフツーにやる。もちろんお客さまに対しては真摯に。

 

このへんが、先輩がおっしゃるところの「心地いい立ち位置」、かな。

1年遅れでシン・ウルトラマンのこと

AmazonのPrime Videoで目について、観てしまった。
なんだか心に刺さって、あの場面だけ、何度も何度も何度も繰り返し観ている。


銀色の巨人が突然空から降り立ち、カイジュウにスペシウム光線を浴びせる場面。
細い脚、薄い筋肉を纏ってはいるも痩せた身体。感情のない大きな光る目、つるんとした鼻梁、細い顎、小さな頭部。

 

彼は体の前で、肘を曲げた右腕をゆっくりと立てる。続いて、後方に伸ばした左腕を、大きく前方へ運び -この時、薄い下腹部は折れ曲がる- 手首同士を十字に合わせ、右手のひら側面から青白い光線を放つ。
孤高な巨人の銀色の肢体。緩やかな動きが美しい。胸のあたりに苦しさを覚えつつ見とれる。そして、またこの場面を観る。


夫くんに向けて(狙う対象物としてちょうど良かった)、スペシウム光線発射に至る所作をゆっくりとやってみた。
夫くんは何かを察知したのか、ぱっと私の方に向き直り、私がスペシウム光線を発射する姿勢を完成させる前に、人差し指と中指を立てた両手のひらを外向きにして、さっと自分の額にあてた。

「ビー!」


お馴染みのウルトラセブンエメリウム光線・・・。やられてしまった。

やあ、いとしいひと

朝のバス。
いつものように一番後ろの窓際の席に座って御多分に洩れずスマホを取り出し、ブログを読んだり、下書きしてみたり。

横の若者はアニメの女の子動画に見入っている。前の席の中年の男性は窓の外の景色を眺め、その横の明るいブラウンのロングヘアー女子は・・・熱心にお化粧中。

気づくと女子はお化粧を終了し、LINEを開いていた。

ー やあ、いとしいひと。

揺れるバスの中、斜め右前方60cmの小さなスマホ画面の吹き出しの中の、そんな1行が目に飛び込んできた!
近くも遠くもよく見えなくなった私の小さな目。メガネ屋さんに勧められて購入した「中近両用眼鏡」を思わず鼻の正しい位置へと引き上げた。

ー 私は本当に1日中あなたのことを考えていました。
ー あなたのことが大好きです。

なんと! そして女子は返す。

ー 私はあなたの夢を見ました。

身を乗り出したくなるのを堪えつつ必死でピントを合わせ、霞んだ中に文字を拾う(少なくとも私にはこう見えた)。妄想するのに余りあるインパクト。
付き合い始めたばかり?遠距離恋愛?小説家だったら、ここからどんな物語を紡ぎだすかしら。

今どきこんな一途な言葉で心を通わせあってるなんて。恋ってすてき。若いってすてき。
あぁ〜ぁ、私も恋がしたいわあ(← ここ、「おはよう忍者隊ガッチャマン」のベルクカッツェの声で!)

バスが目的地に着いた。
窓際の男性が降りるため、女子も立ち上がった。私は、つい、どんなコかしらと好奇心と羨望をこめて女子の顔を見上げた。

?!・・・40代・・??
私はバスを降りて半ば呆然として地下鉄の駅へと降りていった。

<その後の考察>
そもそも「いとしい人」なんて心を震わせる台詞は、若者同士の恋愛では語られないよなー。大人の恋愛こその、昭和世代こその(昭和カップルと決めつけている)ピュアな愛情表現なのだ!

このブログで個人が特定されることは無いと思いますが、のぞき見してごめんなさい。恋の成就をお祈り申し上げます。
それとも、何かのアプリですか?

定年退職〜!

本日2023年3月31日、定年退職した。
1985年4月1日に入社して、あっという間の38年間だった!!

夕方、ちょっとしたセレモニーのあと、部のみなさんからいただいた大きな花束を抱えて会社をでると「『定年退職』したぞおぉ!みんな、ありがとぉー!」と声高らかにふれまわりながらスキップでもしてしまいそうな気持ちが込み上げた。


昨今の若者たちの働き方や価値観からするとヘンかもしれないけど、まさに「社畜」だった。それもかなり幸せな(“おめでたい”?)社畜だった。
飼い主さまのおかげもあってか、広々とした草原を素晴らしい友人たち先輩方同僚の皆さんと走り回り、美味しい草を喰み、陽の光をたっぷり浴びて、心技体を育み今日に至った。
ヨロヨロへとへとキリキリと大変なこともあったが、今は全てが自分の中で武勇伝であり笑い話のネタである。

 

自分がこれまでの仕事を通じて会社に貢献できたのか、社会に貢献できたのか怪しいところではあるが、社畜なりの充実感に満たされていたことには感謝しかない。

 

社員としての最後のこの日を20年後、30年後の私はどんなふうに思い出すかなあ。いや、特に思い出すこともないか。

 

夫くんは、忙しい中、休暇を取ってくれていた。「おめでとう」の祝辞を賜り、朝夕には駅と家の間を車での送迎サービス付きだった。また、退職の記念にと小さな青いガラスの小鳥をプレゼントしてくれた。夫くんがいたからこその38年。これまた感謝しかない。

 

そういえば、私が「定年を迎えて一言」のスピーチをしている時、若者たちはその輝く瞳で、いつになく真っ直ぐに私を観ていた。きっと「定年退職」の現場に初めて遭遇して、もの珍しかったんだろうな。

 

「月曜日、また来てくださいね」って嬉しい言葉もかけてくれた。4月から嘱託社員ってこと、私が忘れ果てているように見えたのかな。

 

kazesoratori.hatenablog.com

 

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一番古い記憶

お題「人生で一番古い記憶」

1番古い記憶ってきっとこれだ、と思っているものがある。
それは幼稚園の入園試験。昭和42年、6歳になる前の寒い時期だったと思う。

その幼稚園は子供の足で家から歩いて20分くらいのところにある小さなカトリック教会の1階。試験会場は別の棟(いつもシスターさんたちがいるところ)の教室みたいながらんとした部屋だった。

親から離れてひとりその部屋に入ると部屋の左側に先生の机が一つ。その横で先生と向かい合って椅子に腰掛けた。そして試験が始まった。
ウオーミングアップ的に自分の名前や両親の名前など問われ、難なく答えた。

それから、見せられたモノの数とかアラビア数字が言えるか数学的能力を問われる設問があったように思う。
佳境は先生が見せた色紙の色を答えるというものだった。赤、緑、黄色と澱みなく回答。最後は薄い紫色だった。
「さあ、これは何色かな?」
「・・・藤色!」
私の意外に古風な答えに、先生はクスッとしたような気がした。芸術性も申し分ない。

その後、低い跳び箱を跳び越える(跨ぐ?)など身体能力の確認、そして床に白いテープで描かれた横断歩道を手を挙げて渡って見せ、社会規範への適応性が測られた。

・・・と、だいたいこのような記憶である。

私の記憶は2-3日前のことでもあやふやだが、この日の記憶、特に「藤色」についてはなぜかことのほか鮮明だ。
先生が自分の発言に反応した。難問に正解した。家庭外の社会の中で、初めて自分が認められたような気がしたのかもしれない。プライド寄りの自尊心か「自信」のようなものを感じたのかもしれない。

 

なお、知的能力、身体能力、社会性、そして何より、その従順さ(これはその後の会社生活でも大いに発揮された) が評価され、入園を果たしたのだった。

(誰でも入園できる近所の幼稚園ですけどね。)

 

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戸籍から見えたご先祖さま

昨年12月、父が亡くなった。まさにロウソクが燃え尽きるような静かな静かな最後だった。
亡くなった後、主にお金関係の処理で戸籍を取り寄せたたりなんだりと暫くは母と弟くん(長男)で忙しそうだった。家も車も株券も特段の貯金もない一人の老人が亡くなっただけなのにずいぶん大変なんだなあと、嫁に行った私(長女)は横から見ていた。

 

ともかくそう言うわけで、初めて父の戸籍というものを見ることとなった。数枚届いた中の1枚は手書きの文字がびっしりだったが、よく見ると「明治」や「大正」に混じって「文政九年」「天保五年」「安政三年」の文字が。それぞれ1826年、1834年、1856年である。
江戸時代に生きたフツウの人(苗字から察するにたぶん農民)の記録がこんな形で残っているとはビックリだった。

 

妻、大叔母、叔父、長男、孫などの関係をパズルみたいに並べてみたところ、私のおじいちゃんのおじいちゃんは徳太郎さん。そのまたおじいちゃんは文右衛門さんという人のようだった。たぶん、1800年ごろ生まれた人だと思う。

 

ああ!どんな人だったんだろう。どんな一生を送ったんだろう。
更に世代を遡っていくといったい何人のどんなご先祖さまたちが今の私の存在を生み出してくれたんだろう。


お墓参りには行っても先祖代々についてこんなに具体的にイメージしたことはなかったなあ。
ちょうどお彼岸だけど、お墓が遠方にあることもあって久しくお墓参りにも行っていない。せめて感謝の気持ちで合掌しよう。

 

私たち夫婦には子供がいない。だから、少子化問題が取り沙汰されるにつけ、将来の年金をはじめ、人口が支えるいろいろな社会の仕組みに貢献できず、申し訳ないなあと思う。
ここにきて、もう一つ、改めて申し訳ないと思うこと。一説によると30世代遡ると10億人を超える先祖がいることになるらしい。人類と呼ばれるようになってからだともっともっとたくさんの先祖が懸命に命を繋いできた。その人たちの喜怒哀楽栄枯盛衰紆余曲折相思相愛悲喜交々粉骨砕身春夏秋冬云々を私の代で切断してしまった。誠に申し訳ないことである。

 

それにしても戸籍って面白い。
実は、母も弟たちも今回初めて知ったのだが(父だって知らなかったかも?)祖父は養子だった。つまり、残念なことに徳太郎さんや文右衛門さんと私は血が繋がっていないのであった。
いつか私の遺伝子のモト、血が繋がっているご先祖様たちを探索してみたい。