かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

秋の深まり

トシをとるとこんなに早く時が過ぎて行くものなのかしら。もう10月も末日。これは備忘録。

 

メガネを1日中、かけっぱなしになった。顔を動かしてピントが合うところを探すという遠近両用メガネ特有の使い方に違和感は続くが。何かとスマホを見るので、メガネをかけたり、外したりしなくてよくて便利。メガネのフチでクマが隠れる、凸レンズ効果で目が大きく見えるのも良い。

 

万博終わった。6月に夫くんと1泊2日で、9月に会社の人と前泊・後泊で真ん中まる1日コースで行った。2回目は女性3人、男性2人、60-63歳、関東・関西・九州から初対面も含む不思議なメンバー。新大阪のホテルのロビーに5:40集合。ホテルに帰り着いたのは22:40。17時間、よく遊んだ!まだまだイケる!と、ちょっと自己効力感上がった。

 

8月にやっと年金事務所に行って手続きをした。11月から年金の受給者になる。いつ会社を辞めようか。なんとなくもうすぐ答えを出せそう。

 

リフォームに取りかかった。トイレを引き戸に変えてバリアフリーに。和室を板張りに変える。その影響でリビングの壁紙も変えることに。溢れかえったモノを整理するきっかけにする。屋根の葺き替えと外壁の塗装も合わせてやる。とんでもない出費だけど、このタイミングでやる。リタイヤしたら田舎エリアのこの家を売って、都会のマンションに引っ越そうなどという考えは幻想であった。施設に入る直前ギリギリまでこの家で雨風しのいで生きてゆく。健康でこの家に住んでいるのが一番安い。


夫くんも63歳になった。社会への貢献感があるらしく製造業さんを支援するお仕事を継続中。体力に合わせて月16日の非常勤社員である。先日の健康診断でも特に問題なし。ただし寒くなったら血圧はちょっと要注意。あと注意すべきは・・・あれれ?いつのまにか髪の毛がこんなに?。薄毛注意報発令。いや、警報レベルかも。


半月前まで昼間暑くて冷房を入れていたのに、先週急に朝晩冷え込んで、慌てて羽毛布団を引っ張り出した。衣替えもできていない。秋が来ないねえと言っていたら、いつのまにかやってきていた。秋はやってきたかと思ったら日ごとに深まっていく。
私と夫くんの人生も春夏を経て、今、秋の真ん中あたりを過ごしている。

きゅんきゅんで消耗す

何かと昔の話が多いこのブログである。
昨日、ふとAmazonMusicで懐かしくてエモい曲をプレイリストにしてみた。聴き始めたら胸がギュッとなった。口ずさんだら涙が滲みそうになる曲もあった。家事や在宅勤務の(⁉︎)かたわら、何時間も聴いてしまった。

 

そして僕は途方に暮れる(大澤誉志幸、1984)、君は天然色(大瀧詠一、1981)、てぃーんず ぶるーす(原田真二、1978)、また君に恋してる(ビリー•バンバン、2007)、クリスマスイブ(山下達郎、1983)、海を見ていた午後(荒井由実、1974)、ラブ・ストーリーは突然に(小田和正、1991)、ロビンソン(スピッツ、1995)、Automatic (宇多田ヒカル、1999)、セカンド・ラブ(来生たかお、2008)、クリスマスキャロルのころ(稲垣潤一、2012)、絵はがき坂(さだまさし、1976)、いっそセレナーデ(井上陽水1984)、学生街の喫茶店(ガロ、1972)、悲しくてやりきれない(ザ・フォーク・クルセダーズ、1968)、壊れかけのradio (徳永英明、1990)・・・まだまだいっぱい。

 

ほとんど当時テレビやラジオまたは街中でかかっていて耳にした曲。時代が進んでからCMや映画の中で聴いたものもある。これらの曲を耳にしながら私はいったいどんなものを見てどんな香りをかいでいたのだろう。どんな風に吹かれてどんなものに触れたのか。ここにも愛しい、過ぎ去りし日の私がいたワ。


今朝、目覚めた時に普段感じることのない、どっとくる疲労感があった。おまけに顔がえらくむくんでいた。懐かしさで胸がギュッとしてきゅんきゅん状態で数時間過ごしたことが原因か。呼吸が浅くなるとか心臓がホントにギュッとなるとか、ヘンなホルモンが分泌されるとか、何かが著しく体力を消耗させたのではあるまいか。

それとも夜中、寒いと感じたエアコンの風で風邪をひきかけているのだろうか。
とりあえず、葛根湯を飲んでおく。

思い出ってなんですか

久しぶりにMちゃん(1コ年下)と食事した。よくありがちな話題となった。60代前半、家の中のモノを減らしてスッキリ身軽に暮らしたいよね、と。Mちゃんは完全リタイヤから数年経っていることもあってか、既にかなりスッキリ化が進んでいるようだ。私が言う。「なかなか捨てられないものがあるワ。思い出の品とか」。すると、Mちゃんは言った。「思い出ってなんですか?」。

 

それは何かときかれて「ハイ、それは」と答えきれなかった。まず、頭に浮かんだのは、納戸奥で壊れかけた段ボール箱に詰まった中学・高校・大学時代の黄ばんだノートや入社した頃の研修資料だったが、もう半世紀前のモノもあって、それを聞かされた時のMちゃんの呆れ顔を思うと「・・・いろいろあるの」と言葉を濁すしかなかった。

 

改めて思った。アルバムや手帳や日記帳も、誰に見せるわけでもないただ私の過去の記録であり、役にたたないゴミ。でも、これら全てを捨ててしまうことを考えると、なんだかとてもとても寂しい。

そして思った。なにしろ、私は私が好きなんだ。過去の自分が愛おしいんだ。わくわくしながらノートをまとめたり、いろんなことを感じたり考えたりしながら日記を綴ったりしている過去の自分の姿が可愛いのだ。だからこうした自らが生産したものを思い出と称して箱に詰めて捨てずにいる。自分大好き、そーいうことなんだと思う。

 

とはいえ、もうホントいいお年なんだから、いいかげんフンギリをつけて捨てる作業に取りかからねば。これから人生後半の限られた時間の中でたくさんの思い出作りに励むつもりだから、身軽になっておきましょうぞ。できるだけ・・・。

 

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40年まえの作文を発見した。

古い友人から頼まれた探し物があって、納戸の奥の黄ばんだダンボール箱を引っ張り出した。学生時代のノートなどが詰まっている箱である(世間一般にはいわゆるゴミといわれる代物)。

ひっくり返しているうちに、原稿用紙に鉛筆で書かれた作文を見つけた。大学の後半、教員採用試験に向けた小論文の練習だろうか?全く記憶にない。もう40年は経っているのに、文章の書きっぷりとか、使っている単語とか、いかにも私が書きそうなことが綴られている。
それにしても、このときの私に教育者として生きていきたいという熱い志があったのだろうか。作文に嘘はないはずだが、ちょっと怪しい。

しかし、さすが教育委員会の人を観る目は確かだ。採用試験は不合格だった。今思えば、その通知を見て不思議とホッとしたような気がする。再チャレンジすることなく、その後、ご縁があった一般企業に就職した。

そもそも人の心に寄り添うことができない私。だが、教育学部に在籍するからには「教師は天職」と自分に言い聞かせていたのかもしれない。またはやはりピュアな思いがあって、この紙切れを捨てずにとっておいたのだろうか。そう思いながら読むと、なぜか胸がきゅっとなる。

自分の記録として40年前の作文を転記しておこう。タイトルはないが、「理想の教師像」「私が目指す教師像」と言ったところだろうか。
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 私は⚪︎⚪︎高校の出身である。近頃、「受験地獄」などと高校生の生活は暗いイメージで語られているが、私はたいへん有意義で楽しい高校三年間を過したと思っている。良い友達に恵まれたこと、そして何より先生方のおかげである。どの先生も個性的で人間味にあふれ、優しく、また時には厳しく叱咤激励して下さった。私に、まさに「青春」というべき「青春」を与えて下さった⚪︎⚪︎高校の先生方への感謝の気持ちが、いつしか教師となることへの憧れとなったのだと思う。
 ある本で読んだのだが、高校生には「教師不信」が多いという。「先生はアテにならない」「先生は冷淡だ」というのである。また「一緒にいて楽しくない人」にはまず「先生」が登場する反面「模範にしたり相談したい人」も「先生」だという。これはどういうことなのか。生徒は、先生に相談したいと思っているにもかかわらず、先生が期待に答えていないとも受けとめることができる。

 私自身がそうであったように、生徒にははつらつとした高校生活を送ってほしい。学校が生徒にとって、知・徳・体ともに豊かな人間となるための場となるか、単に進学準備の場となるかという時、教師の存在は大きく、その責任も重大である。大学進学競争が激しくなっている昨今、教師が生徒との信頼や、暖かみのある触れ合いを失わず心の支えとなるために為すべきことは何だろう。この答えが私の理想とする教師の姿である。

 私は、教育に対して常に生き生きとした熱意を持ち続ける教師でありたい。熱意とは言い換えれば、絶えず教師自身が向上することを目指すことでもあると思う。熱意の存在は生徒の身近かで生徒の心に添い、生徒の身になって真剣に問題に取り組むことを可能にする。また、平和の尊さ、自然の美しさを愛し、生徒に語れる教師でありたい。美しいものに感動し、平和を維持しようとする心は人間として欠かせないものだと考えるからである。
 このような姿勢を通して、生徒が知・徳・体の調和的発達ができるように、すばらしい青春だったと感じ得るように私のできる限りの努力をしたい。以上が私の理想である。

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ちなみに、結局、頼まれた探し物はその箱からは見つからなかった。

 

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確かに。使わねば、と思った。

また5ヶ月経ったのね、前回ブログ書いてから。

空白の間、4月に嘱託社員3年生に進級し、5月に63歳になった。6月に37回目の結婚記念日を迎え・・・相変わらず大過なく過ごしており、誠にありがたいことだ。

 

基本的に「相変わらず」なのだが、先日「Die with zero 人生が豊かになりすぎる究極のルール」( ビル・パーキンス著 )を読んで、ちょっと思うところがあった。

 

著者は、お金は貯めるばかりではなくて、50代あたりから切り崩し始めて最期はゼロにしようと言っている。老後が不安で「まだ足りない、まだ足りない」とお金を貯めるために働き続けて、結局使わないままこの世を去ることもあれば、「さあ、これから!」と思った時には既に体が動かないことだってあり得る。だから、死ぬとき「ああ楽しかった、幸せだった」と思えるように、それまでにたくさんの思い出を作ろう。そのためには、老後の資金不足を不安がって、いつまでもお金を増やそうするのではなく、お金はしっかり使っていこう、と。

 

たしかに!

 

この数ヶ月の間に、昨日まで元気だったという同年代が3人も急逝したという知らせがあった。「会社辞めてから夫婦でゆっくり」も叶わずである。

自分の体に目をやると、若い頃夢中になったバドミントン、オートバイ、登山をリタイヤ後にもう一度ゆっくり楽しむ時が来ると思っていたのに股関節痛が心配で既に諦めた(泣)。海外旅行も足腰の衰えやおトイレの心配などでやがて諦める時が来る。

 

使わねば!

 

いま改めて思う。「やりたいことをやる」という心の比率を意識して上げよう。そして「老後資金への心配」の比率を下げよう。そうでなければ、過度な「心配」に貴重な時間を費やしてしまうところだった。

旅行、リフォームなど、かかる費用の大きさゆえに踏み出せないでいたが、私たち夫婦の人生の彩りになることには、どんどん早いとこ取り掛かろう!

 

・・・と、拳を握りしめたところで、ふと、夫くんの読みかけの本が目に入った。

「60代からの資産『使い切り』法 今ある資産の寿命を伸ばす賢い『取り崩し』の技術」(野尻哲史著)。をを。夫くんは私の一歩先を行っていたのか!

しかし、ずいぶん長いこと読みかけのまま放置されているのは、まず「使い切る」ための「資産」をつくらなければならないことを思い出して本を閉じたからなのではなかろうか・・・。

 

ところでDie with zeroの著者さんであるが、資産額は1億2000万ドル超なのだそうだ。え? Die with zero???

孫クライシス

先日、SNSに流れてきた雑誌の記事に下記のようなものがあった。


子どもがいない37歳。いろんな場所でいろんなステキなことができて幸せだわ!昔からの友人は子育てを理由に離れて行って付き合いがなくなったけど、私には新しい仲間がいるし、なんだって好きなことができるの。充実した人生よ。子どもがいなくて、あ〜よかった! (元ネタは欧米のようだった。すでに記事はネットの海に消えてしまったし、記憶も確かではないのだが、ちょっと盛った感じだけど、だいたいこんな内容だった)。

 

記事から目を上げて思った。確かにそんな面もあるけど、違うんだよ、そうじゃないんだ。

 

子どもがいなくても普通に楽しい日々。いないからこその余裕・・・とか思っていたら、50代半ばにもなると、子育てに忙しくしていた友人たちがまた身近な存在にもどってくる(ある意味、より深みを増した人間性を携えて立ち現われる)。彼女たちと会うたびに、若い頃にタイムスリップしたみたいに愉快で幸せな時間を過ごす。

 

そして60代に入った頃、ふと身の回りの異変に気づく。「ん?孫?」
友人たちのあっちからこっちからお孫ちゃんお誕生の声。子どもより孫の方が2倍・3倍の密度でその存在を告げてくる(だって、2人の子どもがそれぞれパートナーを得て2人ずつ孫がお誕生したら4人・・)。何かの記念日に撮った家族写真を見たらわかる。我が家のそれは私と夫くんの2人。もちろん楽しそうな表情。しかし、友人らの家に飾ってある写真を見よ。友人夫婦、長男夫婦、長女夫婦、長男の長女、長女の長女、長女の次女、と写真の画面からはみ出さんばかりの幸せが写っているのである。

 

それにしても、この歳になって「子どものいない夫婦」なんだと、ざわざわと再認識させられるとは。このぶんだと、80歳を超えた頃に「ひ孫」ちゃんお誕生のニュースにまた暫し心がざわつくのかもしれないな。

 

くだんの37歳の彼女も60代になったとき、「あれ?」って思う瞬間がある・・・かもしれないね。

 

2025年 仕事始めの日

小雨、気温6℃。仕事始めなので、9時前会社到着を目指して7時過ぎのバスに乗る。在宅勤務やお客さま企業に直行直帰が多い私だが、こういう日は朝も早めに会社にでるようにしている。「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」を個々に言い合う、この仕事始めの朝の雰囲気はきらいではない。

9時過ぎて、パソコンの画面越しに幹部の挨拶を拝聴して ーコロナ前は可能な限り集まって、壁に貼った社旗の前で聴いていたがー そのままなんとなく業務開始。

お昼どき、5:30に起きて作ってきたお弁当をKindle読みつつ食す。白米に4分の1ほどもち米を混ぜて炊いたお赤飯と塩鮭、切り干し大根、青梗菜のカツオ節・ゴマあえ。夫くんのお弁当箱は今日から保温型にした。美味しく食べてくれたかな。

午後もふわっと平常運転。その昔は午後からみんなで初詣に出かけていたっけ。女子たちは着物姿だったなあ。

私のそばを通る女子たちに声をかけられ、それぞれ軽く挨拶がてらのおしゃべり。へえ、娘さんの就職決まったんだ。よかったねえ。で、妹ちゃんは受験なの? 今度「7つの習慣」の勉強会がありますよ。案内送っときますね。うん、ありがと。Sくん、ちょっと元気なくなかったですか?年末にサイフ落としたからでしょうか。いや、単なる連休明けブルーだと思うよ。

 

定時後、少し文具を買って、車通勤の夫くんに拾ってもらい、すき家で腹ごしらえしてからスポーツクラブへ。プールで30分ほどウオーキングとクロール。人が少なかったので「バタフライもどき」もやってみたが・・・これはイカンです、練習しないと。お風呂にはいって、すっぴんで帰宅。

 

このブログをかいていたら、夫くんがルイボスティーを淹れて持ってきてくれた。

 

穏やかだ。とてもいい。この調子で、あと1年か、2年か、決めきれていないけど、嘱託社員を愉しもうと思った仕事始めの日であった。