かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

プラスマイナスゼロ

寒い夜、工事現場の横を通りかかった。水道管の工事だろうか。重機もあったが、灯りに照らされた窪みで懸命にスコップを振るっている人を見た。その姿が尊くてありがたくて、きゅんとなった。あの人は幸せでいるだろうか。

 

家に帰って、ふと夫くんに問いかけた。
「世界に幸せと不幸せはどっちが多いんだろうね。」
「同じじゃないかなあ。プラスマイナスゼロ。でも何が幸せかは人によって違うけどねえ・・。」

 

そして続けた。
「僕は昨日、幸せがあったよ。」
「え?どんな?」
「ことりちゃん(私)がすーすー寝息をたてはじめたとき。膝が痛くて睡眠不足って言ってたから、ちゃんと寝ついたみたいねって思って。」

こんな些細なことに夫くんは幸せを感じていたのか。

 

更に続きがあった。

「そのあと、ぐおーっ、ぴゅー、スー、ひゅーって言い始めて、いったいどこからこの音、鳴っとるやろって感じで、眠れんやった。」

・・・私の盛大なイビキで眠れなかったとな。


つまり、その夜の夫くんの幸せも「プラスマイナスゼロ」だったみたい。

祈ること、縋ること

昔の記憶だからあやふやだけど、外国に入国する時に氏名とか書く紙(今もあるのかしら?)に宗教という項目があったように思う。海外では「無宗教」はブキミな人とおもわれるので「Buddhist(仏教徒)」と書くのが無難、と何かで読んで、無宗教無神論との違いとか難しいニュアンスだと思いながらも専らBuddhistと書いていたと思う。

 

今も書くとすればBuddhistと書く。父のお葬式はお寺のお坊さんにお経をあげてもらい、実家を訪ねると仏壇に手を合わせる。だが胸を張って仏教徒でございますとは言いがたい。般若心経は「色即是空 空即是色」しか知らない。初詣は神社へ行きクリスマスにはそれっぽい夕ごはんを用意する。たぶんそんな人、周りに少なくないと思うが。

 

そんな私。宗教を信仰しているとは言えないし「宗教」とは性質が異なるものだと思うが、確かに何かに祈っている。時には目をつぶり胸の前で手を合わせて。祈らない日はない。

朝、仕事に出て行く夫くんの車のお尻を見送りながら。親や弟たち、いとこ姉妹を思い浮かべながら。被災地の様子に衝撃を感じながら。スズメさんやシジュウカラさんを愛でながら。無事に幸せでいてほしいと願い、祈る。

 

いったいどこの誰に?たぶんその「誰か」もしくは「何か」のことを私は「カミサマ」と呼んでいる。特にお釈迦さまとか唯一神をイメージしているわけではない。もしかしたら、身の回りに800万も御坐します「やおよろずの神」のイメージに近い。または、千の風になって吹きわたっているご先祖さまたちか。

 

私の「カミサマ」の正体はわからないが、この瞬間までのすべてのことへの感謝や、大切な人たちをヨロシクという思いを伝える。人としてちゃんと生きていきますから、なにとぞ、なにとぞ・・と。私自身の良心とか愛とか善良な部分のどこかでそんな存在をイメージしているのかもしれない。

 

だが、本当のピンチの時は、明らかに自分の外側に向けて、天を仰いて全知全能の何者かにすがるだろう。神さま、とにかく助けて、と。

終点の町

電車に揺られつつ、ドアの上部に貼られている路線図を目で追いながら「おや」と思った。私って、終点にばかり住んでいるなあと。

 

実家は、JRの本線の終点がある市内にあった。JRの終点では線路が一旦くにゃりと持ち上がってそこで切れている。もうその先に線路の続きはない。

結婚して移り住んだ町のアパートはバスの終点だった。それも右に行く系統も左に行く系統もどちらも終点、ダブル終点だった。

家を建てて住んでいるここも、最寄駅はローカル線の終点である。

 

無意識に選んだのかもしれない。

曲線やまあるい路線の通過点はたくさんあるが端っこの点は一つ(もしくは二つ)しかない。スペシャルな場所なんだ。なにか安定感を感じるし。

 

バスや電車の行き先表示に記載されている場所であり、車内のアナウンスも「次は終点、○○です」だからつい「終点」と言ってしまったが、くるりと車体の向きを変える(電車だったら運転手さんが最後尾の運転席に移動する)「折り返し地点」でもある。そして折り返したその時からそこは「出発点」になる。

終点だけど見方を変えると始点の町。どん詰まりの最果て感もあれば、前に続くだけの未来が始まる町。やっぱりスペシャルだ。ちょっと嬉しい発見。

 

何より電車やバスに乗る身としては、眠りこけても乗り過ごす心配がほぼない。また、ほぼいつも時刻表通りに発車してくれるのはありがたい。ほぼ、いつも。

 

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白い線が入った学生帽をみた

懐かしいものを見た。

出張のため、そう頻繁には利用しない駅で乗り換えの電車を待っていたとき、目に入った画像が直接、脳の“思い出コーナー”に刺さった。

 

3本の白い線が入った学生帽。いったい何年ぶりに見るだろう。詰襟学生服の高校生は何人も電車から吐き出されてくるのに、後にも先にも彼だけが白線入りの学生帽をセットでかぶった正装であった。よほど気に入っているのか、防寒か。

 

“思い出コーナー”には、夫くんの学生服姿も保管されていた。今朝の彼と同じく、ひょろひょろな体にダブつきぎみの詰襟学生服、そして白線入りの学生帽。その頃は帽子をかぶるのは規則だったが、イケてる男子たちはツバの真ん中を山型に折り曲げたり、全体をぺちゃんこに潰したりして不良っぽいカッコよさをアピールしていた。が、夫くんは「ど・ノーマル」でこれまた大き過ぎ感のある帽子をお召しであった。かれこれ半世紀近く前の思い出である。

その頃私はセーラー服。まさかあのひょろひょろくんと結婚して今に至るとは。

 

ちなみに私たちが通っていた高校の男子の制帽は白線が2本だった。中学生の頃、ほのかに気になっていた男の子の高校は白線が3本だった。きゅん。

 

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寒い朝、バス停に45分間立っていたこと

この感情はナンなのか、怒りなのか、なぜ怒りを感じるのか。逆に、このソワソワした胸の高鳴りはナンだろう、いったいなぜ浮かれているのか、何に価値を感じているのだろう。などと、自分の感情の出所や理由が気になってしょうがない時がある。

 

その朝は気温2℃。私はいつものバスに乗ろうとバス停に立っていた。が、定刻を過ぎてもバスは来ない。郊外過ぎてデメリットも多い住宅地に住んでいるのだが、最寄りバス停が始発地から3つ目の停留所であるというメリット、つまり必ず座れるし、時刻表通りにバスがやってくるというメリットはありがたく享受している。

「へー、遅れるとは珍しい。ま、もうすぐ来るでしょ。」・・・ところが、来ない。アプリをみると2停前を過ぎたことになっている。更に次のバスが来る時刻になったけど、まだ来ない。2台分のバスを待つ人たち(といっても4-5人)が「来ませんねえ」などと声をかけ合ったり、お仕事関係だろう、遅れますと電話連絡をしている。私も上司に「いつになるかわかりません」とチャットした。

結局、45分ほど遅れてバスはやってきた。事故渋滞だったらしい。

 

不思議だったのは、寒い中、状況もつかめないまま、いつ来るともしれないバスをじーっと立って待つ間、私が始終穏やかな気持ちであったことだ。それに45分間は案外早く過ぎた。いつもの私だったらイラついて、バス会社を呪い倒す呪文を飲み込みつつ、眉間に皺を寄せ口角を限界まで引き下げ不機嫌オーラをごうごうと放出していたと思う。

 

この45分間を考察したい。

出席を予定していた会議に私がいなくても誰も困らない。嘱託社員ならではの責任の薄さゆえの落ち着き?待っていればそのうち来てくれるだろうという無我の境地?運転手さんも焦っているかも。安全運転よろしくといった共感と祈り?達観?無欲?実は寝ていた?白昼夢?・・・

もしかしたら、一緒にバスを待っていた人どうしのささやかな会話のおかげ?不安になりそうな時でも周りの人が苛立ちもせず穏やかだったから、自分もほっこりと心に温かさを保つことができたのかもしれない。

温かさと言えば・・・・。その日私は厚手のロングコートを着ていた。ここ何年も冬はツルッとした生地のトレンチコートで過ごしてきたが、たまにはクリーニングにも出したいと思って引っ張り出した、ちょっと大仰なコート。玄関を出て歩き出した時には「しまった。厚手過ぎたかな」と思ったのだが、ウールの温かさにくるまれて体も気持ちの温かさも冷えずに済んだってことかも。

「衣食足りて礼節を知る」ならぬ「防寒足りて礼節を知る」だったんだなー。

以上で考察を終えます。

夕日と頬のゆるみ

昨日久しぶりにブログをしたため、「公開」のボタンをクリックしようとしたところで、ソレに気づいた。

「☆₊AI」?・・・クリックしてみた。びっくりした。

 

私が4か月以上ブログをお休みしている間に「AIタイトルアシスト」なる機能が実装されておった(それともずっと前からあったのかな??)。AIさまが記事の内容を分析してタイトルをつけてくださるらしい。

やってみたら、ナルホドという候補をお示しくださった。

 「ブログのシーズン3:自分を俯瞰する楽しみと形にする喜び」

え?というものもあった。

 「夕日と頬のゆるみ」(笑)

 

ソーシャルメディア向けタイトル」のカテゴリでは

 「立春が近づく中、2023年のブログ投稿回数はわずか10回 #ブロブの振り返り」

 「自分を俯瞰する自分がいる、新たなブログシーズン #自己理解」

と、なんだか問題提起されたみたいな、反省を促されているような、示唆に富んだタイトルを賜った。なかでも「検索エンジン向けタイトル」としてお示しされた、

 「私のブログ(シーズン3)は終わっていない」

は、キャッチーで、「終わっていないのだっ!」と言い切った感じに思わず唸ってしまった。

 

結局、昨日はAIさまの思し召し通りにはしなかったのだが、今日は今から「☆₊AI」のボタンをクリックして、AIさまから授けられた候補から選ぶことにする。

さて・・・。

 

 

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節分に、2024年の投稿1回目。

あれれ?

夏の名残り、秋の深まり、暮れ行く1年、新年の大災害と事故のニュース、そして、ちらほらと梅の花・・・。気づけば明日は立春である。

昨年2023年は10回しかブログを投稿しなかった。前回が9月で、今年はこれが1回目。・・・まあ、いいか。自分にプレッシャーをかけることもあるまい。

 

こんな感じだけど、私のブログ(シーズン3)は終わっていない。

時間に流されるだけではなくて、ほんのちょっとでいいから、文字や文で「形」にしたいな。夕日がきれいだと思ったこととか、頬がゆるんだ事とか、今日の自分をメモっておくつもりで。私にとってのブログって、自分を俯瞰したり第三者として自分をみている「自分」がいて、即ち、それっておもしろい。

 

・・・と、昨日の夕方、電車の窓の外を飛んで行く景色を見て思った。

 

さて、今日は節分。これから窓を開けて、夫婦で静かめに、でもしっかりと思いをこめて豆をまく。そして、歳の数だけ豆を食べる・・・・61個かあ・・・(かなりの量あるな)。

 

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