かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

幸福の器

人それぞれが幸福を入れる器をもっているとしたら、かねがね、私の器って小さいんだろうなと思ってきた。器が慎ましいサイズだから、昔から、だいたいいつも充足度が高い。
本人の幸福度は高いのだからそれでよいとは思うが、高邁な理想も夢もなく、渇望するものも反骨精神も持ち合わせず、特段のチャレンジすべき目標もないって人間的にどうなのよ、と時々思ったりする。


「だから日本はズレている」(古市憲寿 著)を読んだとき、なるほどなあと思うところがあった。社会学で「相対的略奪」というらしいが、人々は自分の所属する集団の中での比較で幸せを測るから、階級移動の夢が無ければ幸福度は上がるそうだ(親が裕福か貧しいかという階級社会が前提で)。つまり「私たちはこんなもんだろう」と思うから。

 

幸福の器の大きさは、人間性によるとは思うが、その前に生まれ育った家庭の「階級」(我が家は貧乏ではないが裕福ではなかった)で、ある程度決まっているということだろう。そして、幸福度は絶対値じゃなくて相対値だから、私の幸福度は高い。

現在の日々の安穏が、諦めと妥協でもたらされているとは、なんとも寂しい気もするが、大いに納得してしまうのである。

 

会社に通い、あらゆる人に接し、SNSを覗いていると、志高く、大きな器へのバージョンアップを目指さない自分に疑問を投げかけることもあった。人の器の大きさが気になるときもあった。

窓辺に置いた自分の机から、雨上がりの明るい陽射しに揺れる樹々を見ている今は、身の丈に合った器にほどほどに幸福をいれて大事にしていこう、そんな気分だ。

 

 

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