かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

「数学する身体」を読んだ。

「数学する人生」の著者、岡潔と並んで編者として名前が載っていた森田真生の著書「数学する身体」も読んでみた。大雨続きの連休の思い出に、数学シリーズ。といっても数式などはほとんど出てこないので私でも(わからないなりにも)読み進めることができた。 ※敬称略

 

読み始めて「人はみな、とうの昔に始まってしまった世界に、ある日突然生まれ落ちる。」と、冒頭から、何事ぞ!?と驚く。人と“数“との長い長い歴史と今について予感させられる。おおまかには、数学の歴史と、岡潔との出会いから始まる「数学とは何か」「数学にとって身体とはなにか」を問う筆者の探求について書かれた本。

 

数学の歴史

指で数を数えていた時代から、幾何学を重視する理論的なギリシア数学、インド・イスラム世界の実用的なアルジャブル(代数)、そしてそれらの融合によって誕生した近代西欧数学、「無限」や「虚数」等の概念や論理の時代、コンピュータの発明・・・と続く数学の歴史が興味深い。

特に、16世紀に記号「+、ー、×、÷」そして「=」が使われるようになって「一般式」の概念に到達したあたりで、数学を発見し概念や体系を作り整えてきたという人類の営みに、なぜかものすごく感動してうるうると涙腺が緩んだ。

 

数学的思考に必要なもの

数学と言うと記号と数字の羅列やコンピュータであれば01010101・・・を思い描いてしまうが、数学的思考には、むしろ非記号的な「身体化」された思考過程そのものの精度を上げることが必要だという。この精度が上がった状態が岡潔がいうところの「境地」であり、どんなアルゴリズムより生成速度が早い芭蕉の句境を例にあげている。

「身体化」に目がとまった。人間にとって”数”は道具なのだが、身体化されると、もはや道具であることを意識させない、つまり、自分の手足のように操ることができることか、と思ったら、それ以上に、道具を使う「行為」が「思想」とみなされるようになると言っている。kindleの単語の検索機能で「身体化」を検索すると何か所にも出ていた。あ、タイトルも「身体」だっけ、と独りごちた。

 

岡潔の数学

本の後半では、筆者の「数学とは何か」「数学にとって身体とはなにか」を問う探求の原点は岡潔との出会いだったと、岡潔の思想を紹介・解説してくれている。解説されてもなお、ますます深すぎて難しいのだが。

20世紀の数学は「数学的対象を記号化し客観化して、数学の厳密性と生産性をどこまでも追及していく」スタイルだったが、岡潔は「客観化するより身体化すること」「対象化するより、それと一つになること」に向かっていったとある。哲学のような・・・いや、精神性や臨む姿勢が武道、茶道などの「道」に通じているように思えた。

 

雨はまだ降り続いている。大雨特別警報も発令されたままだ。どうか、大きな災害が起こりませんように。いつか数学は、こんな自然の猛威もコントロールするようになるだろうか。もしそうなったとしても、畏怖の念は忘れてはならないと思う。

 

 

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