かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

そもそも「あたりまえ」の考察

コロナウイルスの蔓延で世の中がかわった。それはつまり「あたりまえ」と思っていたことが変わった、ということ。

 

毎日会社にいくこと/社内会議のために出張すること/接待する・されること/平日は外食でもかまわないこと(会社関係とかグルメ探訪とか)/口紅をぬること/スーツを着ること/・・・これらはすでに私の「あたりまえ」ではなくなった。パラダイムシフトなのである。

 

会社でやってる様々なことも、世の中が変わったのだから、そもそも、何のために、誰のためにやっているのか、目的や本質をちゃんと考えた方がいい。実はやる必要がなかったり、もっと素敵なやり方があるかもしれまい。老婆心ながら、そんなことをいう場面が少なくなくて、きっと「そもそもおばさん」とか呼ばれているにちがいない(一般的に「そもそも論」は嫌われるものだ)。

 

あたりまえ、という思い込みは、固定観念とも言えるだろう。以前読んだ「水平思考の世界 固定観念がはずれる創造的思考法」(エドワード・デノボ 著)は示唆に富んだ本だった。垂直思考のリスクに気づき、常に柔軟に(あらゆる可能性を排除することなく)物事を考えようということ。

垂直思考は論理的思考だ。仮説を出発点として、AならばB、BならばC、CならばD、だからAはD、と思考を進めていく。すべての段階が正しくなければならない。もしどこかの段階で間違えていたら破綻する。

何よりも「仮説」の枠を勝手に決めつけてしまってはならない。有名な「コロンブスの卵」の話がこの例だ。「だって、卵を割ってもいいなんていわなかったじゃーん」とクレームをつけた人は自分で勝手にルールの枠を決めつけていたという話。もう一つ「ハエトリグモの耳は足にある」話がぞっとして印象的だった。クモに「跳べ」と言ったら跳んだ→足を切り落としたクモに「跳べ」と言っても跳ばなかった→だからクモの耳は足にある。支配的なアイデアによっていくつもあるものの見方が排除されてしまう例だ。(でも、実際、耳が足にあるというのは正しいようだ。写真が恐ろしくて調べきれない。)

 

 バランス感覚、客観性、高い視座、これらも水平思考に類似した概念かもしれない。

 

「あたりまえ」への疑問が社会がかわるきっかけになることもあれば(ジェンダーの問題や資源の浪費とか)、社会がかわったから、これまでの「あたりまえ」について丁寧に考えていかなければならないこともあるのだと思う。

 

ちなみに、いろいろな方々のブログを拝見して、私が長年ずっと、あたりまえにやってきた「毎日髪の毛をシャンプーで洗う」という行為をやめてみた。外出した日はウイルス対策でごく軽くシャンプーを使うが、それ以外はお湯でわしわしするだけにしてみた。2ヶ月ほど経つが何ら問題ない。そもそも、ずぼらで面倒くさがりの私にはありがたい光明だったとも言えるが・・・。

 

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