かぜ・そら・とりのブログ

気ままに、のんびり。

学生時代のノートが出てきた

GWだもの、予てより懸案であった納戸の整理をした。

奥のほうから古臭い段ボール箱が3箱でてきた。中をみてびっくり。

中学・高校の時に友人から届いたお手紙類、高校・大学の時のノートや、黄色く変色著しいプリント類。

結婚したとき、家を持ったときの引っ越しでも、捨て去ることなく大事に持ってきて、もう30年近くこの家の小さな納戸の奥に眠っていた。存在を忘れていた。

 

けれど、箱の中にあってお手紙などがなんとなく纏められていたスヌーピーの箱、お菓子の箱、雑貨店の紙袋は、まるで昨日まで手に取っていたように覚えがあった。

 

高校時代のノートは、世界史、地理、生物、数学など。先生の板書をせっせと書き写したものではなくて、たぶん試験前に参考書の要点も加えてまとめたもので、地図やイラストを描いてカラフルなペンで着色したり要点を書き込んだりしている。

フリクションボールのない時代に誤字もなくバランス良く配置されてなかなかの見応えではないか。思いのほか字面、絵面が記憶に残っている。キーボートやタッチばかりで指の筋肉が衰え果てた現在とは違って、ペンを握り一文字ずつ書いたおかげか。

 

我ながら、「過去、自分が歩んできた道」への執着が強いと思う。

こんなもの、人によっては明らかにゴミだし、断捨離を決意した人には真っ先に捨ててしまわれそうだ。

 

でも、ヨーロッパやアメリカ大陸への海外旅行は、世界史や地理の授業で世界の文化や芸術に興味がわいたため、循環型社会・環境保護への関心は生物の授業中に感じた危機感が今につながっているのだ・・・と、思うとこのノートの1頁1頁が「私」を構成する成分を作ってきたような気がする。

大好きだった数学のノートは数式がぎっしりで、今では証明を追うことも難しいが、今も気持ちを前に向かせてくれるワクワクが湧いてくる。

 やはり捨てることができなかった。またヒモをかけて納戸の奥へとしまい込んだ。

 

なにかにぶつかったとき、立ち返る家があるような安心感。捨ててしまうと根無し草になってしまうような不安。弱い私のアンカーかも。

この黄ばんだ紙の束に今もときめくのです、と言ったら、こんまりさんはなんとおっしゃることだろう。