学生時代、ワンダーフォーゲル部だった事もあり、新田次郎の文庫本を夢中になって読んだ。その中に「孤高の人」があった。もう、どんな物語だったのか忘れてしまったけど、主人公「単独行の加藤文太郎」の孤高を描いた物語だ。
ワンゲル部の活動では通常4~6人でパーティを組みテントや食料を持って夏の北アルプスや南アルプスを縦走する「合宿」をやっていた。そんな山行が面白くてしょうがなかったのだが、心のどこかで「究極の憧れは孤高に単独行」という微熱を感じつつ遠い空をぼんやり見ていた。
そんなわけで何回か試しにちょっとした単独行をやってみたことがある。山小屋泊りでひとり鳳凰三山に行ってみたり、上高地のキャンプ場にひとりテントを張って蝶ヶ岳に登ってみたり。
苔むした静かな森の中で休んでいると、鳥や虫たちが寄ってくる。そんな時、「ああ!孤高な私は、いま自然と同化しているのだ!」と喜びが込み上げてくるのだった。
ところが、日が暮れて夜になると、テントの中で恐ろしいほどの不安に押しつぶされそうだった。ヘッドライトの明かりで、手帳にメモや予定を書きながら「明日」が「明るい日」と書くことを発見して、一縷の希望の光を見出したように嬉しくなった。
私は「寂しがり屋」ではないが、「怖がり」なのだ。いくら憧れようとも「孤高の人」にはなれない体質なのであった。
誰に頼らずとも生きていける強さに憧れる。
だが、結婚してから、「孤高の人」はますます遠のいた。生ゴミ捨て、資源ごみの分別、掃除機かけ、お風呂の準備、洗濯機のセット、干し物・・・などなど、夫の優しさに頼ってしまっている。決して私が指図して、夫にやらせているわけではない。くれぐれも誤解なきよう。