ちょっと前に「世界史の針が巻き戻るとき」(マルクス・ガブリエル著)を読んだ。そして私は「ファサードを飾らず生きていこう」と思った。
著者は、ニューヨーカーのことを「住みにくくても、他の人からすごいと思われればいいと言って、(人生そのものではなくて)人生のイメージを謳歌しているに過ぎない」と書いている。アメリカでは建物の正面部分(ファサード:フランス語で「見せかけ」)は美しく整えられていても中に入ると不完全で住みにくいとも。
私たちはインターネット、ことSNSの世界ではイメージばかりを追い求め欲望し、イメージで簡単に操作されてしまっている。これは民主主義の危機だと。
確かに、資本主義社会、競争社会にあっては、競争に勝つために少しでも自分をよく見せようと無理をしてでもファサードを飾り、勝っても負けてもコマーシャルやSNSに踊らされて更にファサードを飾るものを求め続けてきた。そんな私の生き方が、やがては地球の環境に大きな負荷をかけてしまっていたのだ。
誰かに見せるためだったり、相対的に自分の優位性を示す「イメージ」ではなくて、本当の人生の幸せや地球規模の大切なものについて冷静に静かに考えねば、と思った。
ファサードを飾らず、ゆるりと自然に自分らしく。
水前寺清子さんも歌っていたなあ。
「ボロは着てても こころの錦 どんな花よりきれいだぜ♪」